序幕






 この地獄にあって、君だけが救いだ。

 人の輪廻は実に罪深い。
 
 嗟、君さえいればこの永劫の地獄さえも天国となったのに。






 夏休み前最後の朝礼。朝から蝉がみんみんと煩く、余計に暑く感じられる。昨日も光化学スモッグ警報が出されたというのに、うちの学校はこの全校朝礼を欠かさないらしい。既に校長の長話で幾人か日射病になりかけているというのに、だ。残念なことに私もその一人だった。
「――さて、もうそろそろ夏休みとなりますが――」
 真剣に、頭がくらくらする。これは倒れると思った瞬間、私の意識はブラックアウトした。



「おや、これは珍しい――」
 意識が浮上するのを確認するより先に鼻を衝く甘ったるい腐臭で目が醒めた。熟れ過ぎた果実の、甘ったるく吐き気を催す匂い。それに鼻を押えてあたりを見回すと、一人の男が闇の中に立っていた。
 長く伸ばした髪の先と、引き摺った衣服の裾は周囲の闇の溶け込んで判然としない。長く伸ばした前髪で左の眼を隠した顔は病人のように、或いは蝋のように白い。切れ長の細い目に、整っているのに全体的にのっぺりとした顔は何処か蛇を彷彿とさせた。衣の下からは素足が覗き、それも生きているとは思えないほど白かった。
 どうやら、先ほど言葉を発したのはこの男らしい。
「ここ、どこ」
 考えるより先に言葉が出ていた。それに思わず恥ずかしくなるも、その男はくすくすとさもおかしげに笑った。
「……なに」
「いやいや。此処が何処か、だったかな?聞かぬ方が身のためだ、と言っても聞かんのだろうねぇ」
 糸のように細い目で、笑う。口元に添えられた袖は女性の様で、しかし、そう形容することはできなかった。
「私、帰りたいんだけど」
 攻撃するように言う。実際、とても虫の居所は悪かった。
「……何故ここに来たのかが分からないのか。やれやれ、お上の連中にも困ったものだ。あれから、手違いの無いように、と言い聞かせてきたのに……」
 関係のないような話をとつとつと語りだす。独り言というのだから性質が悪い。
「だから、ここはどこ?!」
「……聞かぬ方が身のためと言ったのに、聞きたいのか?まあ、それほど言うなら止めはしないが」
「いいから早く!」
 怒鳴るように言う。呆れたように溜息を吐いて、男は話し出した。
「此処は、地の果て、地の底。人の道を堕ちた曾ての猛者共が徘徊するようなところだ」
 語られたそれに、言葉が出なかった。
「……地の底?」
 呆然とした声が自分の物でないような気がする。さっきまでの退屈で平穏な日常はどこに消えたのか。
「そうだ、地の底。君のような少年には縁のないところだ」
 半ば役割を放棄した耳がひとつの単語を拾い上げた。
「…………ちょっと待って。私、女なんだけど」
「知っている」
「少なくとも、少女じゃない?」
「いや、“少年”だ」
「なんで?!」
「私がそう思っているからここでの君の扱いは“少年”」
 そこで、ふっと意識が浮上した。
「ちょっと、大丈夫?! 保健室行く?!」
 がくがくと揺さぶられる。友人は心配しているつもりなのだろうが、熱中症患者には辛い。いい加減日光に嫌気がさしていたから行く、と答えた。見上げた友人の顔がきょとん、としていて笑った。



 ああ、やっぱりこっちの方がいい。








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